時は、皇極天皇の御代。播磨の国と但馬の国の境に枚夫長者という豪族がいた。
彼は武勇の誉れ高く、その名前は広く知れ渡っていた。また、信仰篤く、小さい観世音菩薩の尊像を念持仏として、肌身離さず持ち歩いたという。 美しい妻と二匹の愛犬がいたが、残念なことに子供はいなかった。
そのころ都では、蘇我氏が勢力を持ち、天皇家をも牛耳っていた。 中大兄皇子と中臣鎌足がおこした日本初のクーデターと言われる乙巳の変(大化の改新)前夜である。
ある日、枚夫長者の屋敷に都から使いが訪れた。なんと蘇我入鹿のために都へ集まれということであった。枚夫長者は家来を引き連れ、信用のおける者を留守番におき都へ上った(蘇我入鹿が山背大兄皇子を襲撃した事件か?)何ヶ月かの後、戦は終わり手柄をたてた枚夫長者が、凱旋してきた。 留守を預かった者、村の者たちは村境まで出迎えに出、夜は酒盛りになった。 宴もたけなわという時、留守をしていた家来の一人が枚夫長者にそっと耳打ちした。
「獲物のたくさんいる狩り場を見つけました。他の者には知れておりません。もしよろしかったら、明日お供いたしますが」
喜んだ枚夫長者は 「ぜひ」と言い、杯をあおった。
次の日、さっそくその家来と山に入った枚夫長者は不審に思った。
「このあたりの山は鹿や猪はおらぬはず。どこまでいくのかのう」
と、つれてきた二匹の愛犬に話しかけた。すると家来は、
「もう少しでございます」
とずんずんと先に進んでいく。しょうがなく後を追っていくと、突然家来の姿が消えたかと思うと、上の方で笑う声がする。
「はっはっは、かかったな」
驚いた枚夫長者が見上げると、大きな岩の上に家来が弓に矢をつがえ、こちらを見下ろし笑っている。
「どういうことだ」
「どうもこうもないわ、こういうことよ。だが理由もわからぬまま死ぬのも悔しかろうから、言ってやる…」
家来は、話し始めた。枚夫長者の留守中、その家来と枚夫長者の妻がよい仲になってしまったことを…。
「そうかわかった。しかたあるまい。たった何ヶ月の間待てなかった妻が悪いか、そんな妻を見抜けなかったわしが悪いか…。しかし、こんなところで殺されたとあっては、わしは世間の物笑いだ…。おお、そうだお前たち…」
枚夫長者は二匹の愛犬を呼び、持参した弁当を与えながら、
「お前たち、わしが討たれたら残さず屍を喰らうてくれ。戦場で死ぬのは武士の誉れ。だがこんなところで、あのような者に討たれるのは恥辱じゃ」
その時、頭を垂れ黙って聞いていた二匹の犬は突然飛び上がり、一匹は家来の弓に、もう一匹はのどぶえにかみついた。驚いた家来は犬たちを振り払い、逃げていった。
枚夫長者はそれを見て驚き、感激した。
屋敷に帰った枚夫長者は、さっそく妻を追い出し、家来たちを集めてこう言った。
「私はこの二匹の犬に命を助けられた。私には子供がおらぬが、これからはこの二匹の犬を我が子としようと思う。私が死んだら、我が財産を全てこの二匹の犬のために使ってくれ」
それから何年か後、二匹の犬たちは相次いで枚夫長者より先に死んでしまった。 悲しんだ枚夫長者は、犬たちの菩提を弔うため伽藍を建立、自分の念持仏であった観世音菩薩の尊像を胎内に納めた千手観世音菩薩を本尊とした。
以上が「播州犬寺物語」の概略です。縁起については、文献によっては少々違う場合もありますが、とにかく二匹の愛犬が、枚夫長者(牧夫長者?)を助けるというあらすじには変わりはないようです。 変わり種としては、大阪市立美術館所蔵「犬寺縁起絵巻(上下二巻)」があります。絵巻物として物語、それも長編にする必要性からかなり脚色されています。
皇極帝の時代、現在の兵庫県神崎郡神河町に枚夫長者という豪族がいた。彼には子供がいなかったが、二匹の愛犬を我が子のようにかわいがっていた。
そのころ都で戦が起こり、枚夫長者もその戦に従軍することになった。
その留守中家来と枚夫長者の妻が結託し、やがて帰ってきた枚夫長者を狩りに誘い出し殺そうとした。その危ないところを助けたのが、二匹の愛犬たちだった。
大変感激した枚夫長者は愛犬の死後、私財をなげうって伽藍を建立した。
以後、三度野火が迫るも千手観世音菩薩の霊験か、伽藍には被害がなかったという。そのことが、桓武天皇のお耳に達し当山を「官寺」とした。
それが現在の金楽山法楽寺、通称「播州犬寺」である。